二十四番札所 曹洞宗 海蔵山 岩松寺
岩松寺 縁起
戦国の世、1450年三河設楽地方に名声を高めていた三豪族が居た.三河山家三方衆と呼ばれた、田峰菅沼、長篠菅沼、作手奥平の三家である。ともに血縁関係で結ばれ、外敵に備え協力していた。しかし天正元年(1573)家康は、武田の城長篠城を攻略し長篠菅沼は敗走。変わって作手の奥平を城主とした。天正3年(1575)3月武田勝頼、三河に侵攻し長篠、設楽ヶ原の戦で織田、徳川の連合軍に敗れ田峰菅沼は武田とともに敗走。天正10年(1582)3月勝頼自刃、武田家滅亡と共に田峰菅沼定忠家も滅びる。作手奥平は徳川家に加担し功績を上げたので、家康から新城の城を与えられ加増される。田峰菅沼定忠の法名、安養院殿剣叟浄秀大居士石祠の中に娘夫婦の五輪塔と共に三体納められている。
菩提寺岩松寺は元和5年(1619)源智により開かれた小さな草庵に始まり、やがて松岳院と称し、天和2年(1682)玄誉和尚は宗祖承陽大師二十七世法孫大川梵益を請して開山とし、三代将軍家光公よりご朱印を拝領して本尊阿弥陀如来を安置し、寺号を岩松寺と改めた。
札所本尊千手観世音菩薩は子育て観音とも呼ばれる。文政5年(1822) 当寺十一世大心和尚代。門前の子供が大病で、まさに死ぬばかりであった。母親はなんとしても子供を救おうと一心に仏さまを念ずると、手の沢山ある仏さまが現れ、子供の体をなでさすった、とたんに、大病は癒えた。これが当寺に祀られる千手観音菩薩である。